彼は、困ったように笑っていた

彼は、困ったように笑っていた。いつもの余裕のある顔とは、違っていた。あぁ、この人も今、私と同じように余裕をなくしているのかもしれない。「都合が良いっていうか……そうね。信じられないっていうのが、正直な感想。だってそうでしょ?私は、依織のことを好きな久我さんを間近で見てきたんだから」私は久我さんのことを、恋のライバルだと思っていた。その内、一種の仲間意識みたいなものが芽生えていったのだ。彼の依織に対する気持ちは、嘘なんかじゃなかったはずだ。「確かにそうだね。少し前までの僕は、七瀬さんのことが好きだったよ。tin box factoryに、君と過ごす時間が待ち遠しくなっていたのも事実なんだ」「……そんなこと急に言われても、困る」胸の高鳴りと、どうすればいいのか不安な感情で押し潰されそうになる。私も好き、だなんて、今の私には言えなかった。「うん。でも、君を僕のことで困らせたくて言ってみた」「え……」「これからは、僕のことを思う存分意識してほしいから」

久我さんは真剣な表情で私を数秒見つめた後、ふっといつもの不敵な笑みを浮かべた。言われなくても、意識してしまうに決まっている。今この瞬間から、私の胸の奥に彼の存在が深く棲みついてしまった。彼が自分の気持ちに正直に生きる人だということは、よく知っている。いつだって、後ろを振り向かずに前に進む。たとえ強引なやり方だとしても、彼はきっと自分の選択に後悔しない。そんな生き方が、私には眩しく映って仕方なかった。「本当は、このまま君のことを連れて帰りたいけど、やめておくよ」「な……あ、当たり前でしょ!行くわけないじゃない」「今はね。でも、あと三ヶ月も経てば、君の気持ちは変わるかもしれないよ。僕のことを、好きになってるかもしれない」「人の気持ちを、勝手に予言しないで」好きなんかじゃない。ずっと自分にそう言い聞かせてきた。私はまだ、依織のことを忘れていないんだって、そう思い込みたかった。実際、自分が久我さんにどんな感情を抱いているのか、自分でもよくわからない。それでもただ一つだけ、間違いないことがある。「僕の予言は当たるんだよ」「そうやって、すぐ適当なこと言うんだから」「適当かどうか、試してみる?」何をどうやって試すのかと笑っていると、繋がれた手がキュッと少しだけ強くなった。絡み合う視線。久我さんの鋭い瞳に見つめられるだけで、自分の心が揺らぐ音が聞こえる。「試すって、何を……」するとそのとき、運転席の方から突然派手なくしゃみが聞こえた。私はその音で、我に返った。あまりにも真っ直ぐな彼の言葉に惹き付けられてしまい、今この空間に第三者がいるということをすっかり忘れてしまっていたのだ。「す、すみません!邪魔しないようにと思って、必死に堪えたんですけど……」タクシーの運転手の男性が申し訳なさそうに謝る様子を見て、逆に変な気を遣わせてしまい申し訳なく感じた。タクシーという狭い空間で、あんな会話を繰り広げた私たちが悪いに決まっているのに。「いえ、こちらこそすみません」「いえいえ!それにしても、美男美女でお似合いですね」「そうですか?ありがとうございます」久我さんはにこやかに微笑みながら、運転手の男性と親しげに会話を進めていく。もちろん、私にそんな余裕はない。「……恥ずかしくて死にそう」「そんなに恥ずかしい?」「そりゃそうでしょ。ていうか、私より断然久我さんの方が恥ずかしいと思うけど」久我さんが私にくれた言葉の数々を私以外の人も聞いていたのかと思うと、正直あまり良い気はしなかった。「僕は別に。最初から、君と二人きりの空間じゃないことは忘れてなかったしね」「もう……どういう神経してんのよ」この人のメンタルの強さが羨ましい。どうすれば何事にも動じずにいられるのか、教えてほしいくらいだ。「お客さん、絶対モテますよね」「そんなことないですよ」「もし僕が女性だとして、あんなことを言われたら、すぐに好きになっちゃいますよ」