「そうですね。
「そうですね。入院などの已むを得ない事情があり、それを証明できれば別ですが」
「そうですか」
答えてから、少し視線を彷徨わせて考えた。
裁判沙汰は避けたい。
それは俺自身がというより、楽の存在があるから。
彼女も、直接的には言わないが、裁判は避けて欲しいと思っているようだ。
楽が心配しているのは、大方、裁判になって自分の存在が俺の枷になることだろう。
裁判でも何でもして早く別れて欲しい、って言って欲しい気もするけど。
ともあれ、裁判は誰も望んでいない。
「提案を受け入れます」と言うと、岡谷さんは頷いた。
彼は椅子から腰を浮かせて、立ち上がろうとした。それを、俺は引き留めた。
「では、そのように――」
「――あの」
「はい?」
「調停中に相手に会いに行くのは、やはり控えるべきですか?」
岡谷さんが浮かせた腰を、下ろす。
「奥様に会われるつもりですか」
「次回の調停には来るようにと、直接言おうかと――」
「――それだけですか?」
そんな、電話でもすれば済む話でわざわざ直接会おうとするはずがないと、簡単に見抜かれた。
「調停抜きで離婚に応じた場合の、条件を提示しようかと」
「例えば?」
「マンションと、財産の八割」
「八割……も?」と、岡谷さんが聞き返す。
俺は小さく頷く。
本当は、最初からそれを条件に、萌花に離婚を迫っても良かった。
俺には楽と、実家と、僅かな金があればいい。身体も動くようになったし、明堂と縁を切っても、何かしらの仕事をしながら、細々と暮らしていけるだろう。
楽と話し合ったことはないが、彼女ならばきっと、賛成してくれる。
「その場で離婚届にサインをするなら」
「……なるほど。調停中に面会することは禁止されていませんから、問題はありません。その条件で離婚が成立するなら、調停を取り下げれば良いだけです。ただ、私としてはお勧めしません。離婚したくないと泣き疲れて絆されるならまだしも、感情的に言い合いになって警察沙汰になる事案も多いですから」
俺が萌花に絆されることはない。絶対に。
となると、可能性があるのは別れ話のもつれから警察沙汰になる方か……。
「私が同席するか、もしくは会話を録音するか、は必要だと思います」
「録音?」
「はい。調停や裁判で有利になる発言を記録できるかもしれませんし、なにより、録音していると思えば、軽率な言動には注意するでしょう」
「なるほど」
夫婦仲が最悪なことをアピールする材料くらいにはなりそうだ、と思った。
「とにかく、調停日の調整を申し入れてきます」
そう言うと、岡谷さんは待合室を出て行った。
俺は手元のスマホで、小型のレコーダーを検索して、彼が戻るのを待った。
心配そうな表情を浮かべ、けれど引き留めようとはしない楽に、「大丈夫だから」とキスをして家を出た。
三回目の調停の十日前。
二回目の後から毎日午前と午後、電話をかけたが一度も繋がらなかった。だから、やはり直接会おうと、こうして今、タクシーで数か月前まで暮らしていたマンションに向かっている。
黒のジャケットの内ポケットには、離婚届。サイドポケットにはレコーダー。
俺はタクシーの後部座席で、窓の外を眺めていた。
昨夜、ベッドで楽を抱き締め、呟いた。
「財産全部渡したら、離婚できるかな」
無一文になってもそばにいてくれるか、と真っ直ぐ聞けない自分が情けなかった。
楽は言った。
「財産全部渡しても、離婚したい?」
「うん」
俺の返事に、楽がふっと笑った。
「この家だけは、渡しちゃダメだよ?」
「萌花は欲しがらないだろ」と、俺も笑った。
いくら都内の一軒家とはいえ、萌花の好みではない。
夜九時を過ぎたら寝静まるような街だし、徒歩十五分ほどの最寄り駅までの道のりにあるのはスーパーやドラッグストア、本屋、ファーストフード店。
高級レストランもデパートも、有名なスタイリストの美容室もない。ネイルサロンも、多分ない。
「それでも」と、楽が首を振る。
「この家は、悠久の帰る場所だから」
そう言って微笑む楽が眩しくて、涙が出そうになった。
どうしていつも、楽は俺の欲しい言葉をくれる……。