「そうですね。

「そうですね。入院などの已むを得ない事情があり、それを証明できれば別ですが」

 

「そうですか」

 

 答えてから、少し視線を彷徨わせて考えた。

 

 裁判沙汰は避けたい。

 

 それは俺自身がというより、楽の存在があるから。

 

 彼女も、直接的には言わないが、裁判は避けて欲しいと思っているようだ。

 

 楽が心配しているのは、大方、裁判になって自分の存在が俺の枷になることだろう。

 

 

 

 裁判でも何でもして早く別れて欲しい、って言って欲しい気もするけど。

 

 

 

 ともあれ、裁判は誰も望んでいない。

 

「提案を受け入れます」と言うと、岡谷さんは頷いた。

 

 彼は椅子から腰を浮かせて、立ち上がろうとした。それを、俺は引き留めた。

 

「では、そのように――」

 

「――あの」

 

「はい?」

 

「調停中に相手に会いに行くのは、やはり控えるべきですか?」

 

 岡谷さんが浮かせた腰を、下ろす。

 

「奥様に会われるつもりですか」

 

「次回の調停には来るようにと、直接言おうかと――」

 

「――それだけですか?」

 

 そんな、電話でもすれば済む話でわざわざ直接会おうとするはずがないと、簡単に見抜かれた。

 

「調停抜きで離婚に応じた場合の、条件を提示しようかと」

 

「例えば?」

 

「マンションと、財産の八割」

 

「八割……も?」と、岡谷さんが聞き返す。

 

 俺は小さく頷く。

 

 本当は、最初からそれを条件に、萌花に離婚を迫っても良かった。

 俺には楽と、実家と、僅かな金があればいい。身体も動くようになったし、明堂と縁を切っても、何かしらの仕事をしながら、細々と暮らしていけるだろう。

 

 楽と話し合ったことはないが、彼女ならばきっと、賛成してくれる。

 

「その場で離婚届にサインをするなら」

 

「……なるほど。調停中に面会することは禁止されていませんから、問題はありません。その条件で離婚が成立するなら、調停を取り下げれば良いだけです。ただ、私としてはお勧めしません。離婚したくないと泣き疲れて絆されるならまだしも、感情的に言い合いになって警察沙汰になる事案も多いですから」

 

 俺が萌花に絆されることはない。絶対に。

 

 

 

 となると、可能性があるのは別れ話のもつれから警察沙汰になる方か……。

 

 

 

「私が同席するか、もしくは会話を録音するか、は必要だと思います」

 

「録音?」

 

「はい。調停や裁判で有利になる発言を記録できるかもしれませんし、なにより、録音していると思えば、軽率な言動には注意するでしょう」

 

「なるほど」

 

 夫婦仲が最悪なことをアピールする材料くらいにはなりそうだ、と思った。

 

「とにかく、調停日の調整を申し入れてきます」

 

 そう言うと、岡谷さんは待合室を出て行った。

 

 俺は手元のスマホで、小型のレコーダーを検索して、彼が戻るのを待った。

 

 心配そうな表情を浮かべ、けれど引き留めようとはしない楽に、「大丈夫だから」とキスをして家を出た。

 

 三回目の調停の十日前。

 

 二回目の後から毎日午前と午後、電話をかけたが一度も繋がらなかった。だから、やはり直接会おうと、こうして今、タクシーで数か月前まで暮らしていたマンションに向かっている。

 

 黒のジャケットの内ポケットには、離婚届。サイドポケットにはレコーダー。

 

 俺はタクシーの後部座席で、窓の外を眺めていた。

 

 昨夜、ベッドで楽を抱き締め、呟いた。

 

「財産全部渡したら、離婚できるかな」

 

 無一文になってもそばにいてくれるか、と真っ直ぐ聞けない自分が情けなかった。

 

 楽は言った。

 

「財産全部渡しても、離婚したい?」

 

「うん」

 

 俺の返事に、楽がふっと笑った。

 

「この家だけは、渡しちゃダメだよ?」

 

「萌花は欲しがらないだろ」と、俺も笑った。

 

 いくら都内の一軒家とはいえ、萌花の好みではない。

 

 夜九時を過ぎたら寝静まるような街だし、徒歩十五分ほどの最寄り駅までの道のりにあるのはスーパーやドラッグストア、本屋、ファーストフード店。

 

 高級レストランもデパートも、有名なスタイリストの美容室もない。ネイルサロンも、多分ない。

 

「それでも」と、楽が首を振る。

 

「この家は、悠久の帰る場所だから」

 

 そう言って微笑む楽が眩しくて、涙が出そうになった。

 

 

 

 どうしていつも、楽は俺の欲しい言葉をくれる……。

林の中のイザベラには木々の隙間からク

林の中のイザベラには木々の隙間からクービルの姿が見える。クロノ原で双頭刃を振るって王女軍兵士を散々蹴散らしたクービルの姿をイザベラは眼に焼き付けていた。一方のクービルはイザベラの事は全く知らなかったが、林の中に尋常ならざる者を感知していた。陰形の術を使って気配を消しても、尚身を守ろうとする闘争の気までは消せないらしい。ただ木が邪魔をして、クービルの側からは林の中のイザベラの姿は見えず、位置も正確には捉えられない。林の中に野獣のような殺気を感じるだけである。(何者だ。尋常の者とは思えない。が、少なくともハンベエやドルバスでは無いな。そもそも、あの二人なら一対一の状況で林に潜む事などしないだろう。) 何処の誰かは分からぬが、相当な手練れには違いない。とクービルの方でも相手を警戒していた。肌を刺す殺気から敵である事は明らかだ。林の奥深くを五感で油断なく探りながら、踏み込むか否かと、クービルは迷っていた。 相手は踏み込んでくるのを待ち受けているだろう。むざむざ敵の備えるところに身を曝せば、クービルの方が分が悪い。何より敵がどんな武器を使ってくるか分からないのである。(この者、東に向かっていたな。これほどの手練れ、もし太子の命を狙う者だとしたら、今太子の周りを固めている者達では心許ない。)太子軍に残っている面々を思い起こして、クービルは不安を覚えた。十二神将タンニル、シンドラ、チャード、師団長ドーマヌーケ、ボケルゾ、ヒヨール。どれも今対峙している正体不明の相手には及びそうにない。せめて、ボーンが太子の側近くに残っていれば、と臍を噛む思いだった。 林の中ではイザベラがクービルの動向を凝視し続けている。相手をクービルと認めた為であろうか、自分から戦闘の口火を切ろうとはしない。『声』と遭遇した時は、同種の臭いに反応したのか、行き掛かりの為か、自ら挑んで行った女豹も、クービルについてはやり過ごそうとしている気配だ。クービルならばハンベエに任せよう、と考えているのかも知れない。それでも相手が攻撃の姿勢を示したら、嫌も応も無いのであろう。半時間も両者は林の内と外で睨み合っていたであろうか。クービルは剣の鞘を握り締めたまま、林から眼を離さずに少しづつ体を街道を西の方向に動かして行き、二十メートルほど元の位置から離れてから、足早に過ぎて行った(ハンベエを倒し、王女を葬る事が優先される。殿下の事は残った者に任せるしかない。相手は一人、殿下の周りには万の兵が居るのだ。)そうクービルは思い直したようだ。(これは、ハンベエ並の危険な奴がこっちに進んで来る。ちっ、向こうも立ち止まった。アタシに気付いたね。一体、何者。)咄嗟にイザベラは街道横の林の奥深くに身を潜めて、陰形の術。気配を消して、息を殺した。イザベラをして、身の危険を覚えさせた者と来れば、もうお解りだろう。ハンベエに決闘を申し込むと言って西に進んで来るクービルだ。五分後にはイザベラが足を止めて身を隠した街道の場所までやって来て立ち止まった。腰の剣の鞘に手をやり、イザベラが身を潜めた林を眼を細めて窺っている。(あれは、クービル。ヤバい奴と行き遭ったよ。)「クービル、道々の王国の民からは王女軍の勝利を寿ぐ声ばかり聞こえて不愉快です。しかし、連中の声は侮れません。このまま、ボルマンスクまで辿り着いたとしても殿下の再起は覚束無いでしょう。こうなっては、事態を打開する方法は一つしか無いのではないですかな。」とナーザレフは何か含み事を示唆するような言い回しをした。

お茶を飲んでもう頃合いかと思ったのか

お茶を飲んでもう頃合いかと思ったのか、おもむろにハンベエはイザベラに話し掛けた。うん、と頷くようにイザベラはハンベエの眼を見た「大分前に、ハナハナ山でドン・バターの一味を潰滅させた策略。あれ、ボルマンスクの奴等にも使えないかな?「・・・・・・。敵の内懐に入るトロイの木馬ってやつの事かい?」「そっちじゃなくて、イザベラがやって見せてくれた、敵を内部対立させて自滅に追い込って方の策さ。「ああ、アレねえ。」「敵は十七万の大軍だ。正面からぶつかり合うにはこちらが不利過ぎる。逆に十七万という大所帯な対立させる種は結構有ると思うのだが。」「ボルマンスクの大人数相手にアタシ 生髮洗頭水 にそれをやれと。・・・・・・流石に大舞台過ぎてアタシ一人の手には負えないよ。それにアンタだって、タゴロロームでバンケルクとやり合った時には、似たような手も使ったんだから、やり方分かるだろう。」「いや、そうじゃなくて、イザベラ一人にやってもらうのではなくて、俺やモルフィネスにその手筋の指導と言うか、助言をもらえないかな・・・・・・と思い至ってな。」「・・・・・・イヤに謙虚じゃないか、ハンベエ。」 苦笑しながらイザベラは、考え込む仕草をした。だが、ヒョウホウ者は習性で表情をくらましてしまう。やれやれというふうに首を振ってイザベラも食事を始めた。 別に気まずい事も無いはずなのだが、三人は黙ったまま気が付けば喫茶へと移行していた。「ところで。」今度はイザベラがハンベエを訝しんで見詰める。ハンベエが黙っているものだから、「敵には、ボーンみたいな奴もいるし、サイレント・キッチンという組織もある。簡単に嵌めるのはちょっと難しいねえ。それに今までは専ら情報収集の方面の依頼だったから、そういう事はちっとも用意してないしねえ。・・・・・・まあ外ならぬハンベエの弱気だから、一晩考えては見るよ。・・・・・・遂にアタシにまで知恵を求めるほど、弱り込んだか。」呟くようにイザベラは言って、帰り支度に掛かった。ハンベエは『キチン亭』の出口までイザベラを送って行った。「何だか気持ち悪いよ。ハンベエがアタシを送ってくれるなんて。まるで貴婦人扱いだ。」ハンベエに対し訝しさの収まらないイザベラである。「そうか?・・・・・・。何か今日のお前はいつもとは全く違う磁力が有るみたいだ。問うつもりは無かったけど、最近何かいい事有ったか、イザベラ。」「ええ?・・・・・・。」「今日のお前の顔はまるで菩薩だよ。驚いたぜ。」「・・・・・・。菩薩?」イザベラはきょとんとしていた。暫くそのままだったが、やがて思い当たる事が有ったらしく、嬉しそうに笑った。「ロキがね、やっとアタシに心を開いてくれたから。」「何か有ったのか?」「いや何もないけど、アタシは人の心を操る術を会得しているから、そういうのはイヤでも分かるじゃない。あの児、アタシと居ると警戒心が抜けないと言うか、何かピリピリする所があったのよね。最近何だかそれが消えたのよ。やっと仲良くなれた。」イザベラはロキから警戒心を解かれた事で心持ちに変化が生じていたのだと自分でも思ったらしい。勿論、嵐の夜の話はおくびにも出さないが。「ああ、そういう事か。永かったなあ。」 ハンベエは素直にイザベラの為に喜んだ。「まあ、俺もお前も大曲者。敏いロキが無意識に警戒してもしょうが無かったさ。」「いや、ハンベエの方は初めからロキに懐かれていたじゃない。」「出会い方が全然違うだろうが。」「ふふふ、そうだったね。じゃあ、お休み、ハンベエ。」イザベラは王宮に戻って行った。 イザベラを見送り、ハンベエが部屋に戻ると、「ハンベエ、話が有るんだけど。」待っていたかのようにロキが切り出した。難しい顔付きになっている。ハンベエはさっきのイザベラに対する態度が普段と違ったらしいので、冷やかされるのかと一瞬勘繰ったが、全く違う話だった「この前、御前会議でナーザレフ一派についてオイラ許せないって言ったよねえ。」ああ、そうだったな。子供を売り飛ばす、とんでもない連中だって。」「今日、ザック達と会って、その連中の詳しい話を聞いて来たんだよ。ザック達もオイラがカクドームに行ってる間に色々調べたらしいんだ。」「・・・・・・。ふーん、しかし、子供のみで諜報の真似事するのは危険だぞ。今やあちこちで色んな眼が光ってるからな。」

ドルバスの殺害に向かっている二人はセイリュウのみならず

 ドルバスの殺害に向かっている二人はセイリュウのみならず、一味全員が敵に降った事も知らずにいた。そして又、今となってはドルバスを殺害する事は逆に身の破滅に直結するであろう事も露知らず、受けた命令を忠実に果たそうと急いでいた。ドルバスが捕われているとハンベエが知ったのは、後からやって来たモルフィネスの口からであった。「ふーん、ドルバスは大人しく捕われたのか。あいつらしいな。」モルフィネスから話を聞き、二人して王宮内に有るという地下牢に向かい歩く途中ハンベエが言った。「そうだな。と言うか、そもそも姫君の印形の押された軍令書に手向かう等反逆だぞ。ハンベエ。」「だったら、劍橋英語課程 お前も同罪じゃないか、モルフィネス。」「馬鹿な事を。私はただ王宮に起こり掛けた混乱を鎮めただけだ。姫君の命令書を携えた者達を有無を言わさず斬り棄てたのはハンベエだ。」「お話し中、悪いけどお。二人ともオイラの事忘れてんじゃないなお。」 並んで歩くハンベエとモルフィネスの後ろから声が掛かった。ロキである。走って来たらしく、少し息を切らせている。「ハンベエ、中の様子を見たらオイラを呼びに来てくれるんじゃなかったのお。」「あっ、悪りい。つい、忘れ・・・忘れるわけねえじゃねえか。もうちょっと後で呼びに行くつもりだった。」「忘れていたんだあ。もうハンベエと来たら、ダンビラ抜いたら後先無くなるんだからあ。」ぷーっとロキは頬を膨らませた。御立腹の様子である。「まあ、ロキ。そう責めるな。それよりハンベエは今反逆者になりかけてて大変なんだ。」モルフィネスがロキを見て言った。大変なんだと言う割には毟ろ気味良さげな表情に見えるのは僻目(ひがめ)であろうか。「何を言いやがる。」「しかし、そうだろう。姫君の命令書に恐れ入るどころか牙を剥いたのだから。」「王女様からどんな命令が出ていたのお?」「ドルバスやハンベエを捕らえよ、と言う内容の命令書だ。」とモルフィネスがロキに事情を説明した。それにしてもモルフィネス、ロキと一緒に王宮の門の外からハンベエとセイリュウのやり取りを窺っていたはずなのに、二人の会話を間近で聞いていたように詳しい。「ドルバス、ドルバスさんも捕まりそうになってるの?」「いや、既に捕われている。」「・・・。」「昨日、王宮に配備していた群狼隊兵士から私の所に『ドルバス捕われる』と一報が入ってな。」モルフィネスの一言に、ロキの頭を昨日の昼過ぎ王宮から方向か大急ぎで駆け去って行った兵士の姿がよぎった。(あれはそれをモルフィネスに伝えに行った伝令だったんだあ。)「私もセイリュウの動きは怪し過ぎると思ったんで、密かに兵士を五千人王宮周辺に配備して、取り敢えずゲッソリナに戻って来るハンベエと打ち合わせをして対策を練ろうと捜させたのだが。」とモルフィネスは此処で一旦言葉を切ってハンベエにチラリと目をやり、「この短気者はズカズカと独りで乗り込んで、セイリュウその他を撫で斬りにしてしまったというわけだ。」話しながらも三人も歩みを止めない。「王宮に有る地下牢は一カ所、そこの階段を下りた所だ。」モルフィネスは目の前の階段を指差した。魂消るような悲鳴が噴き上がったのは、モルフィネスが指を向けた丁度その時だ。氷の貴公子、沈着冷静の鉄仮面モルフィネスも悲鳴が聞こえた瞬間が瞬間だったせいであろう。筋金入りのスタイリストがビクリと体を震わせ、不格好なへっぴり腰で泡を食ったように階段を駆け降りようとした。「慌てなくていい。ドルバスの声じゃねえ。」ハンベエはモルフィネスの服の背中を掴むと無愛想に言った。果たしてハンベエ達がゆっくりと降りて行くと、そこで目にした光景は、二人の兵士がカタカタと歯を鳴らしながら尻餅をついている姿だった。兵士達の足元には投げ出された槍が転がっている。

」と薄ら笑いを浮かべて言った

」と薄ら笑いを浮かべて言った。妖艶でぞくりとするほどの艶っぽさであるが、この戦場では何やら化生(けしょう)の類いを連想させて不気味でもあった。袖摺り合うも多生の縁とか。どれ、このアタシが引導渡してあげるとするか。テンカンの発作でも起こしはしないかと心配になるほど、狂気錯乱した顔付きで口から泡を飛ばしながら、モスカは呪詛の言葉を吐き続けていた。やがて、ノーバーから使者がやって来た。この一大事に本人が飛んで来るかと思いきや、使者であった。モスカは怒りと苛立ちに身を震わせた。ブルブルと小刻みに顎を震わせ、今にもヒステリーの発作に狂いそうであった。 しかし、ステルポイジャンとその軍が消えた今、頼りは貴族達の兵ばかりであった。モスカは苛立ちを抑え、international school elementary 使者を引見した。使者は淡々とタゴロローム軍とステルポイジャン軍の戦いの帰趨を伝えた。それによれば、アカサカ山近くにおいて決戦が行われ、国王バブル七世、大将軍ステルポイジャン、四天王スザク、ビャッコ等ステルポイジャン軍の主立った将領はほとんど討ち死にし、残った兵士達は皆タゴロローム軍の軍門に降ったと言う事であった。「ガストランタはいかがした。」聞くだにおぞましい敗戦の報を憔悴した表情で聞いたモスカは辛うじて尋ねた。「ガストランタ将軍については消息不明の模様ですが、恐らくは戦死されたものと思われます。」使者はただ淡々と答えるのみであった。「ノーバーはいかがしておるのか。」「ノーバー閣下におかれては、今後の方寸(ほうすん)を他の貴族の方々と協議されております。」「協議じゃと・・・・・・わ、わらわを差し置いてか。」ピカッとモスカは狂気に彩られた蛇のような眼差しを使者に振り向けた。古代ギリシア神話に出て来る怪物メデューサと目を合わせた者は石に変わったと伝えられているが、モスカの眼差しを見た使者もその恐ろしい目付きに体を硬直させた。「軍議でございます故、太后陛下をお呼びしなかったのではないかと愚考いたしまする。それにタゴロローム軍の出方など詳しい事情もまだ明らかでない様子。話がはっきりした時点で我が主人から太后陛下に必ずや報告があるはずでございます。」使者は固まりながらもどうにかこうにかそう答えた。「ぬぬぬ。・・・・・・されば仕方ないのう。しかし、ノーバーに伝えよ。一区切りついたら、直ぐにわらわの前に顔に出すようにと。」「承りました。間違いなくお伝えいたします。」使者は答えるとそそくさと帰って行った。しかし、丸二日経ってもノーバーはモスカの前に姿を現さなかった。太后モスカは今にも気の狂わんばかりに苛立った風情でやはり自室をグルグルと歩き回っていた。そんな半気違い状態のモスカの所へ顔を出したのは執事のフーシエであった。「太后陛下。少し落ち着き下さい。そのように徒に心気を乱されるとお体にも障りまするぞ。」フーシエは恭しく頭を垂れがら穏やかな声で言った。両手で水差しとコップそして薬包みの乗った盆を捧げ持っている。「これが落ち着いておられようか。我が子フィルハンドラが、国王陛下バブル七世が弑(しい)されたのじゃぞ。わらわは夜も眠れぬ思いぞ。」「太后陛下のお悲しみは痛いほど分かります。されど、そのように激しくお嘆き遊ばされてはまずお体に障ります。此処に心を落ち着かせる薬を医師に調合させておりますれば、まずはこれをお飲みになられて少しお休み下さい。」「眠り薬か?」「はい、その効果も有ります。少しはお眠りになられた方が良いかと存じます。」「ふむ。」 長年仕えて来た執事の言葉にそれもそうかとモスカは大人しく薬を飲み、床についた。「夜の闇が煩わしい。燭台を明々とさせる為に、油をたんまりと用意しておくれ。」部屋を出ようとするフーシエにモスカはベッドの中から言った。薬の効き目は直ぐにモスカを眠りにつかせた。

「人違いじゃと言っても通りそうにござらぬようじゃな

「人違いじゃと言っても通りそうにござらぬようじゃな。」薄ら笑いを浮かべたテッフネールは腰の剣をシュルリと柔らかに抜くと、だらりと両手を垂らして斜め下段に構えた。「行くぞ。」ブンっと唸りを上げて、ドルバスの薙刀が横一閃に払われた。岩をも切り裂くかと思えるその一撃を、しかしながらテッフネールは、ふわりっ、と風に舞う木の葉のように躱してしまった。「中々の一撃でござるな。みどもに挑んで来るだけの事はござる。」テッフネールはからかうように言って、ニンマリと笑った。余裕が有り余って体から吹きこぼれ智慧城市でもしまいかという風情だ。焦りを誘おうとするのだろうとドルバスは取り合わず、無言で次の一撃を放った。二撃目、三撃目、唸りを上げてドルバスの薙刀がテッフネールを襲う。だが、テッフネールはふわりふわりと躱し続けた。十数撃躱し続けられ、まるで、掴み所の無い、空気と格闘しているかのような気分にドルバスがなった時、テッフネールがひたと立ち止まり一歩前に出た。「さて、十分攻撃もさせてやった事でござるし、気の毒じゃが、そろそろ死んでもらう事とするでござるかの。」自信たっぷりに言って、ゆらゆらと近づいて来るテッフネール。ドルバスは次の一撃こそ、真っ向ぶち当てて二つに裂いてやろうと身構えた。テッフネールは下段から頭上へと緩やかに剣尖を舞い上がらせた。半円を描く刀の切っ先が白く光って糸を引いたかのように見える。次の瞬間、ドルバスは自分を取り巻く空気が異様に重くなったように感じた。剣を掲げて、さして速くもない足取りでテッフネールが近づいて来る。ドルバスは渾身の力を込めて薙ぎ払おうとした。だが、何とした事であろう。体が全く動かせないのである。まるで自分の手足が消えて無くなってしまったかのような感覚であった。(何だこれは、何かの妖術か。)大いに焦ったドルバスは、一刀両断今にも振り下ろさんと掲げらせたテッフネールのヤイバを見詰めながら、絶望的な思いで斬られる覚悟をした。その時、ドルバスを両断せんとするテッフネールに向けて一本の手裏剣が飛来した。もう少しで、ドルバスを斬殺できるところまで追い詰めたテッフネールであったが、惜し気もなくドルバスを諦め、身を翻して手裏剣を躱した。手裏剣の飛来した向きにテッフネールが目を向けると、今しがた対峙した巨漢ドルバスに比べると重量感に劣り、背も少し及ばないようだが、それでも人並み外れて背の高い若者が、道の脇に避けていた兵士達を掻き分けて出て来るところであった。この場面で出て来る人間と言えば一人しかいない。ハンベエである。豪勇ドルバスには真に気の毒であるが、所詮は前座であった。いよいよ、真打ち登場である。それにつけても秋の空、何に付けてもそれなりに。余りにもタイミングの良すぎるハンベエの登場であった。ひょっとすると、兵士達の陰で成り行きを見守り、出番を待っていたのかも知れない。「そいつは俺の獲物だ。悪いが、手を引いてくれ。ハンベエにそう言われ、ドルバスはその場から離れた。全く自由のきかなかった体は嘘のように元に戻っていた。「ハンベエ、気をつけろ。そいつ妙な術を使うぞ。」離れながら、ドルバスは一言言わずにいられなかった。「分かっている。」低い声でハンベエが答えた。ハンベエはテッフネールがドルバスに施した術を知っていた。師のフデンも使った『金縛り』の術である。残念だが、その術には俺には効かないぜ、とハンベエは腹の中で笑って、テッフネールの正面に立った。「俺がハンベエだ。俺を殺しに来たんだよなあ、テッフネール。殺せるもんなら殺してみなよ。」ハンベエはそう言うと、犬歯を剥き出すようにして、凄みのある笑みを浮かべて見せた。「何だまだ顔にも可愛さの残るヒョッコではござらぬか。」頭から足の先、足の先から頭まで、と上から下までハンベエの姿を透し見るような仕草をしてみせながら、テッフネールが言った。無論、ハンベエの顔に可愛さなど残っていようはずもない。青二才め、と嘲る代わりに言ったのだ。

ロキが少し驚いて言った。

ロキが少し驚いて言った。「仕事上、仕方のない時も有るのさ。」「ふーん。・・・そんな事より、ハンベエが来たんだから、今度こそ何しに来たか。教えてよお。ハンベエ、ボーンさん、大分前にこの部屋にやって来たんだけど、何しに来たのか、オイラに教えてくれないんだよお。ハンベエが来たら話すって。」「ふむ。」 ハンベエは手近の椅子を引き寄せてボーンの前に座った。ボーンは慌てて足を下ろして座り直した。「いとも簡単に司令部の俺の部屋まで入って来られるようじゃ、警備を見直さなきゃならんかなあ。」 ハンベエは、ivf成功率その気もないのに言った。「いや、警備はこんなもんだろう。さして悪い方じゃないと思うぜ。俺も一応、腕利きの諜報員だから。」「全く、ボーンやイザベラにかかった日には、警備なんて何の用も為さんな。」「それは、ハンベエに対してだって同様だろ。」「で、何しに来たんだ。」「国王毒殺の真相その他の情報を伝えに。」「友達の誼(よしみ)でわざわざかい。」「ああ、そうだ。・・・と言いたいところだが、宰相閣下の命令だ。」 どうやら、ロキへの金の相談は後回しにしてボーンの話を聞かなければならないようだ。ハンベエは身を乗り出し、両手で机に頬杖をついた。人の行儀の悪さを咎めない代わりに、ハンベエも行儀良くはない。 ボーンはサイレント・キッチンが掴んだ国王毒殺の顛末を包み無くハンベエに伝えた。そしてその後、王妃を通じての要請に貴族達が応じ、その兵士で王宮が固められたので、ラシャレーがサイレント・キッチンを率いてボルマンスクに去った事も。「それじゃあ、ルノーってトンマのせいで、ラシャレーは足を取られた事になるのか。尤も、この俺も無関係じゃないが。」 ボーンの話が一段落した時点で、ハンベエがぼやいた。「そうだな。ステルポイジャン側の行動も半ば突発的なものだったから、予測できなかったとも云える。」「ステルポイジャンが関与してなかったのは間違い無いのか。」「掴み得た情報からはそうなるな。」「そうか。何と無くそんな気がしていたが。」「しかし、その後も王妃に荷担してるんだから、同罪だぜ。さてと、俺の方もハンベエに聞いて置くよう命じられている事が有る。」. 「ほう。」「質問その一、王女様の安否。」「まだこっちには来ていないが、イザベラが護衛に付いているから、まずは無事にタゴロロームに逃げて来るはずだ。」「イザベラ?・・・どうなってるんだ?」「何だか知らないが、王女とイザベラが仲良しになってるのさ。その事は宰相のラシャレーは知ってるはずだ。」「聞いてねえ。まあ、いい。質問その二、ハンベエは王女をステルポイジャン達の手から守るつもりは有るのか?」「・・・ステルポイジャン達には渡しはしねえよ。」「だとすれば、ステルポイジャン達と戦争だな。今現在奴らに従った貴族達の兵士が5万、南方守備軍が12万だから、総勢17万か。ま、頑張れ。」「・・・。ボルマンスクの兵隊は何人くらいいるんだ?」「7万かな。兵を募れば、後3万くらい集められるだろう。」「俺達の敵対がはっきりした場合、ステルポイジャン達はタゴロロームとボルマンスク、どっちを先に攻めると思う?」「俺の見立てでは、タゴロロームだな。先ず弱い方から手早く潰そうとするだろう。ま、頑張れ。」

「・・・。」

「そう言えば、貴族達がステルポイジャンに付いたと言ったが、近衛兵団を率いるルノー将軍の去就はまだ分かってないな。」「ふん、そのルノーって奴には色々絡まれたが、こっちは我慢して生かしておいてやったんだから、ステルポイジャンに付かれたんじゃ、当て外れだぜ。」現時点では、南方守備軍は漸くゲッソリナに到着したところだった。『ラシャレー浴場』が破壊され、近衛兵団が消滅するのは少し後の事である。当然、ボーンもハンベエもまだ知らぬ事であった。ルノー将軍、ハンベエが深謀遠慮でわざわざ手心を加えたようであるが、この後、ステルポイジャン軍の猛攻の前に泡雪のように消えてしまう事になる。どっちにしろ、当て外れな奴だった。